2019/01/22 18:23
「船のでんきや」のはじまりと自分がどうして「船のでんきや」になったのか過去を振り返りながら書いてみようと思います。何ぶん書くことには慣れていないので読み難い点も多々あると思いますが、自己表現の鍛錬と考えて綴っていきます。
弊社は「昭和26年頃から地元の漁船にバッテリーを販売したり発動機を修理していたのがはじまり。」と先代の社長である父に聞いていました。
父は漁師の家の次男に生まれ若い頃は実家の漁船に乘っていたのですが、肺結核にかかり長期の入院を余儀なくされ漁師を断念しました。その療養中にいろんなことを勉強したらしく、退院後は無理のきかない体になりながらも漁師だった経験を活かして漁船の修理をはじめ、もともと手先が器用な方だったの近所の家庭での困りごとにも気軽に対応していました。
その頃この町には、バッテリーの販売を専門とする金沢の会社の支店として「日東電機工業所」という店がありました。本社から出向された方が経営されていたのですが、父をバイトという形で雇って商売を広げていったということです。
後にいろいろな事情から経営者の方が金沢へ戻らねばならなくなり、父に店を譲りました。こうして父が「日東電機工業所」の社長になったのです。
ただ、なにせ田舎のこと当時は戦後のドサクサではっきりした資料が残っていませんが、平成元年に法人化し現在の名称になりました。
私はそんな「日東電機」の長男として生まれ、家業を継ぐことが暗黙の了解のように育ってきました。
ただ、手先もそれほど器用でもなく行動的でもなくどちらかと言えば家で本を読んだりするのが好きないわゆる内向的な性格でした。数学や物理が苦手で、「何かをやりたい!」という特別なことも無く自分を束縛しているように感じた“家”や“田舎”から逃げ出したくなって大学進学の道を選びました。それも“家”への反発からか畑ちがいの文系の学校へ進みました。
在学中は、何かの本で読んだ「何もしたいことが見つからないなら、今はとにかく自分を磨きなさい!」とう言葉に啓発されて、様々なバイトをしたりいろいろな人に出会い話を聞き、とにかく「自分を磨く!」ことを意識しながら過ごしました。
卒業間近かになって今までバイトしてきた中のある会社にお世話になろうと決めて、その会社の入社試験まで受け合格の通知をもらいました。そんなとき、父が若い時の肺結核の後遺症から肺気腫になってまた長期入院することを聞かされました。
就職の報告と父の様子を見に帰郷した時のこと、今まで進路について何も言わなかった母が「父はこれから人工呼吸器を離せなくなる。貴方は長男なんだからこの店の将来のことも考えてください。この仕事をよく思っていないのもわかるけれど、貴方にしかできないこともある。嫌なことから逃げても碌なことにはならない。後で必ず自分の身に降りかかってっくるのだからから・・・」と言われました。。。
それからもう一度よくよく考え、内定をもらっていた会社へも謝りに行きました。
大学を卒業後、家業を継ぐために魚群探知機や無線機等を製造販売する会社に就職し昭和63年に帰ってきてこの仕事をするようになりました。
魚群探知機や無線の修理に関しては一通りの技術は習得してきたつもりでしたが、「船のでんきや」の仕事は奥が深く発電機などの取付技術は輪島に戻ってから必死に勉強しました。
船に故障があると夜中であろうと時間に関係なく連絡が入ります。私を頼って連絡があるので眠いと言ってはいられずすぐに駆けつけ何とか出漁できる状態にします。
漁師のお客様の「ありがとう!」の一言を聞いた時この仕事をしていて本当に良かった思います。
この仕事について30年近く経ちますが、昨年、海上保安庁より「海事関係功労者」という大変名誉ある表彰をいただき今後の励みになりました。